拳禅一如

少林寺拳法は、身体を鍛えることを通じて心を養う行法であり、これを拳禅一如という。
拳は肉体の鍛練の、禅は精神修養の、それぞれ手段なのである。
もともと身体と心は、一体不二であり、従って、その修養鍛練も、あくまで身心一体でなければならない。
少林寺拳法は、頭だけ、理屈だけの救いを説いたり、肉体を苦しめることで精神の安らぎが得られると説くものでもない。
勝敗にこだわり、技術術第一、記録第一と、特殊な肉体を練成したり、選手だけを養成する道でもない。
苦行でも、楽行でもない。拳禅一如の養行。それが少林寺拳法なのである。

 

組手主体

少林寺拳法では、どんな技を演練するときも必ず2人ずつ組んで行うことを原則とする。
護身の技を必要とする時は、必す相手がいるものであり、動いている相手に対する攻防の間合いとか、虚実というような種々の条件は、単独では会得できないからである。
それ以上に大切なのは、平素から、2人が相対して、「法形」と呼ばれる基本の形を、交互に技をかけたり、かけられたり、お互いに研究しあい、親しみながら習得していくから、知らず知らずのうちに相手を立てる習憤が育ち、協調性のある人柄が養われるもとになる。「自分も強くなるが、君も強くなれ!」これが少林寺拳法なのである。

力愛不二

少林寺拳法の目ざす人間像は、きびしさとやさしさを身につけ、それを行動原理として生きることにある。
ほんとうに自分を愛しているなら、何よりも自分にきびしくなけれぱならないし、人を頁実愛しているならば、悪いことは悪いときびしく注意できなければならない。
愛をともなわない力は、暴力にすぎないし、力をともなわない愛はむなしい。
「力と愛」この相反する二つの働きの調和、統一された状態こそ、人間生活の思想や行動の中心なのである。

守主攻従

少林寺拳法の形は、すべて防御からはじまっている。それは、少林寺拳法が、拳禅一如、力愛不二の宗門の行として、先手をとり、敵を倒すことを目的とはしていないからである。第一、禅門の行者たるもの九いかなる理由があろうと、自分から先に、人を打つべきではない。
技術的な理由もある。不敗の体勢を確立した上で、相手の攻撃を受けること、守ることが、同時に反撃になり得るからである。
勝たなくてもよい。絶対に負けないこと。そのためには、先に手を出さないで相手の動きを見きわめること。
そして、攻撃に対する受けが、即、手痛い反撃であること。これが少林寺拳法である。

剛柔一体

剛法とは、我と彼とが激突して、彼を倒そうとする技のことで、 突き、蹴り、打ち、切り、かわし、流し、はじき、受けなどが主体となっている。
柔法とは、我と彼とが接触した状態で変化を起こし、彼を制しようとする技を云い、守法、抜き、逆、投げ、固め、圧し、締め、などが主体となる。
少林寺拳法では、この剛柔二法を完全に備えており、その上剛法の中に柔的な、柔法の中に剛的な要素が含まれており、互いに分を守りながら、互いに補ないあい、相より相たすける相乗作用を果たして、自由自在なのである。

少林寺拳法の特徴

不殺活人

単に目分の強さを誇示するために、理由もなく人を殺傷したり、自我を押し通すためや、目己の名声を得るために、争いを求めるなどは、およそ愚かしいことである。
一拳必殺を呼号して、いたずらに人を殺傷する技術の習得だけに血道をあげるのは、邪道に走った殺人拳といわざるを得ない。
少林寺拳法は一拳必殺でなく、一拳多生を、殺人拳でなく活人拳を目標にしている。
少林寺拳法は、東洋医学の精髄である経豚の理にもとづいて技が組み立てられており、この技の活用によって、人を殺しも傷つけもしない、一拳多生の活人拳たり得るのである。